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Full text of "Tsukasa Kuwabara, a sociologist in Japan. Articles since April 2012."

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鹿 児 島 大学 リ ポジ トリ 






n □ □ □ □ =^oumal of economics and sociology, Kagoshinna 

Issue Date 



http://hdl .handlenet/10232/11060 


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Kagoshinna University Repository 

シン ボリ ック 相互作用 論 序説 

Introduction to a Sociological Perspective oi 
Symbolic Interactionism: Corrected Edition 

桑原 司 (鹿 児 島 大学) 

1 sukasa Kuwabara 

油田 真 希 (鹿 児 島 大学 大学院 人文 社会科学. 
Maki Aburada 


The main purpose of this study is to examine the theory of ^^yrnbolic Inteniciiomsm formulated 
by Herbert Blumer, from the following viewpoints: 

a) How does Symbolic Interactionism explain the concept of socialization, i.e., the process 
in which hominids become human beings? 

b) How does Symbolic Interactionism explain the concept of Vergesellschaftung foimmel, d. ん 
i.e., the process or mechanism through which people construct human society? 

c) Why is human society to be considered to be a changeable process? 
After careful examination, the following findings were made: 

i) Blumer regards socialization as the process in which the two frameworks or perspectives 
(schemes of definition and generalized roles) that have been acquired by an actor through 
interactions with groups of others guide his/her interpretations/ definitions. 

ii) In Blumer' s theory, society is seen to be possible only when each of the actors in 
interactions can properly grasp the two standpoints (that of the other and one's own 
standpoint in the eyes of the other) by doing a kind of selr— interaction (i.e., taking into 
account of taking into account; the concept taking into account of taking into account is 
the famous terminology used by N. Luhmann, but it was originally formulated by Blumer 
himself in 1953). 

Ill ノ Because of the nature of others (black boxness), all the actors interacting with others are 
seen to be necessarily forced to revise their interpretations/ definitions continually. For 
this reason, society must be regarded as a changeable process. 
Finally, we have tried to review critically the research method of Symbolic Interactionism (i.e., 
the approach from the standpoint of the actor) on the basis of the conception of man and society 
that has been clarified in the earlier chapters of tnis paper. Our review proviaes evidence for the 
two additional points listed below: 

iv) in doing the approach fi-om the standpoint of the actor, only an individual can be included 

into the category of the acting unit. 
V) the standpoint of the actor perceived by researchers must never be seen as the standpoint 
in the raw but has to be seen as a. kind of reconstruction of co-nstructions created by 

経 済 学 論集 第 76 号 

We nnally have confirmed that testing this conception or man and society (]■, i], and in noted 
above) empirically, based on the points iv and v, would (and must) be one of our important tasks in 

In addition, this paper is the ''corrected' edition of the next article: Tsukasa Kuwabara, 2001, 

dissertation, Tohoku University) K£IZAIGAJW-ROmHU ~ OF KAGOSHIMA UNIVERSITY, 

0. 問題の 所在 

いわゆる, シカゴ' ルネサンスの 一翼 を 形成す る, ハーバ一 ト • ブル一 マ一 (Bhmier, Herbert 
George, 1900-1987) の シン ボリ ック 相互作用 論 (Symbolic Interactionism) が, T ノく一 ソン ズを中 
心と する 構造 機能主義 社会学 や, G.A. ランド バーグ を 中心とする 社会学 的 実証主義 (操作 主義) 
を 批判し, それに 代わる 分析 枠組み や 研究 手法 を 発展 させよ う と した こと は 良く 知られて いる 2 。 
とりわけ, その 分析 枠組みに 関して は, これまでの わが国の 研究に おいて は, それが 提示す る 「動 
的 社会」 観が 高く 評価され てきた。 すなわち, 社会 を, 「主体的 人間」 « &津 衛) によって, 形成- 
再 形成され る 「流動的な 過程」 ないし は 「変動 的」 「生成 II 展的」 な ものと 捉える, そうした 社会 
観が 高く 評価され てきた 3 。 本論 4 は, ブルーマーの シンボリック 相互作用 論が 持つ, 分析 枠組み 
と 研究 手法と いう この 二つの 側面のう ち, 主として, 前者の 側面に 焦点 を 当て, 論 を 展開し ようと 
する ものである。 すなわち 本論 は, ブルーマーの シンボリック 相互作用 論が 持つ, 「動的 社会」 観 
なる ものの 見方の 内実 を 検討す る こと を その 目的と している。 

では, 如何なる 観点から, その 検討 を 行う のか。 本論で は, シンお リック 相互作用 論に おいて 
「個人と 社会との 関係」 が 如何な i ものと キ' 巴 握され ている のか (ないし は 論理 上, 如 イ^なる ものと 
把握され 得る あか), そうした 観点から, この 社会 観 を 検討しょう としてい る。 より 具体的に 述べ 
るなら ば, 本論 は, 以下の 三つの 問い を, ブル一 マーの シンボリック 相互作用 論 を 素材と して, 解 

1 http ゾ /web.archive.orgZweb/20101112000357/http:〃ecowww.leh.kagoshiiim-u.a に jp/staff/kuwab;ira/201009l8/phdl9.pdf 

' 1960 年代〜 70 年代に かけての, ベトナム 戰争 (I960 年〜 75 年), ドル' ショック (ニクソン' ショック), ブ 
ラック ■ パワー, 大学紛争 など 一連の 激動の 糸 f 験の 中から, パーソンズ 流の [存の 社会学 一 構造 機能主義 社 
会 学 一の 「保守的 性格」 に対する 批判と 新しい 方向への 模索が 始まる。 この 時期に, ポスト 'パーソンズの 
流れで 台頭して きた 社会学の 諸 流派 は. 一般に 「意味 学派」 と 呼ばれて いる 力 《 , そのな かの 1 つと して 位置 
づけ ら れ ている のが, シ 力 ゴ 学派 社会学の 第 3 世代 に 位置す る ブル 一 マーに よつ て 提唱 さ れた シ ン ボ リ ッ ク 
相互作用 論に 他なら ない (長 田 1981: 22-9) 

3 周知の ように, ブルーマーの シンボリック 相互作用 論の 分析 枠組み は, 心理学に おける 「刺激— 反応 理論」 
ないし ワトソン 流の 「行動主義」 と 社会学に おける 「社会化 過剰の 人間 観」 及び 「静態 的 社会 観」 を, その 
論敵と して 組み立てられ ている。 前者に おいて は, 人間と は 外的 • 内的 刺激に よって 自動的に ある 一定の 行 
動 パターン を 発動す る 存在と 捉えられ, 後者に おいて は, ある 一定の 形態 を 安定 的に 保つ こと をむ ねとす る 
「社会」 if' 「社会化」 と 「社会 統制」 という 2 つの 作用 を 人 問に 及ぼす ことで, 人 問 は 社会に 適合 的な 行動 
パターン を 自動的に 取る よう 作動す る 存在と 捉えられ ている。 船津 (1976: 3-4, 21, 24-5, 32, 34-5, 37-8; 
1983: 37-45) 及び Wallace and Wolf (1980=1986) を 参照の こと。 

Introduction to a sociological pers 

http:/ /*/ht;t:p://ecowww.leh.kagoshima—u. htm 

—2 一 

シン ボリ ッ ク 相互作用 論 序説 

明し よ う とする ものである。 

1) シンボリック 相互作用 論に おいて, 個人の 「社会化」 (socialization) と は, 如何なる ものと 
把握され ている のか。 

2) シンボリック 相互作用 論に おいて 「社会」 (society) と は, 如何なる メカニズム を 通じて, 
その 個人 (個々 人) により, 形成され て ゆく ものと 捉えられ ている のか。 

3) また, そうした 社会が 何故に 再 形成され て ゆく ものと 捉えられ ている のか。 

言う なれば, 本論 は, ブルーマーの シンボリック 相互作用 論の パースペクティブから 「社会学の 
根本 問題」 「' を 解こうと する ものである。 とレ、 うの も, これまでの ブルー マ一 の シンボリック 相互 
作用 論に 関する わが国の 諸 研究に おいて は, まさに この 根本 問題 を 念頭に おいた 研究が 充分に なさ 
れ てこなかった と 捉えられ るからで ある。 

なお, 如上の 目的 を 遂行す る 上で, 看過して はならない 重要な 論点が ある。 それ は, 個々 人が 社 
会 化される その メ 力 二 ズムと は 如何なる ものな のか, 個々 人が 社会 を 形成す る その メ 力 二 ズムと は 
如何なる ものな のか, そして, そうした 社会が 何故に 再 形成への 扉 を 開く ものと 捉えられなければ 
ならない のか (その 論理的 必然性と は どのように 説明され るの か), この 三つの 問い を, ブル一 マー 
の シンボリック 相互作用 論の 概念的 柱石と なって いる 「自己 相互作用」 (self-interaction) 概念との 
確固たる 結びつきの もとに 明らかにしなければ ならない という 論点で ある。 すなわち, 本論 は, こ 
の 自己 相互作用 概念との 確固たる 結びつきの もとに, 上記の 三つの 問い を 解明しょう とする もので 

1 - 個人と 世界との 関係 

まず 第 1 章に おいて は, 主として, 上記の 問い 1) の 解明が 企図され ている。 また それに 付随し 
て, ブル一 マーに おける 「個人と 世界との 関係」 把握, ならびに, 「行為」 把握の 解明が 企図され 
ている。 ブル 一マーの シンボリック 相互作用 論に おいて, その 概念的 柱石と なって いる 「自己 相互 
作用」 と は, ブル一 マ一 によれば, 「自分自身との 相互作用」 (interaction with oneself) とも 言われ, 
それ を ブルー マ一 は, 「文字 どおり, 個人が 自分自身と 相互作用 を 行って いる 過程」 であると か, 
「個人が 自分自身 に対して 話しかけ, そして それに 対して 反応す る, という コミュニケ一 シ ヨンの 

5 断る まで もな く, 「社会学 は 社会学 者の 数 ほど ある」 と言われる ほどに, この 学問 領域 は 多種多様な 研究 内 
容- 研究 対象 を 有して いる [ちなみに わが国に おいて. 定評が あり もっとも 普及して いると 思われる 有斐閣 社の 『社会学 小 辞典』 (濱嶋 
ほか 1 977) に は, 実に 3 eoo 項目 ほどの 概念' 用語 力; - 掲載され ている]。 ちなみに ブル一 マ一 は, こう した 社会 学界の; I 犬 況をさ 
して, 「社会学 は 最大 数の 概念と 最少の 知識 を 持って いる」 と 皮肉 を 込めて 表現して いる (Blumer 
1931=1969a: 169=1991: 220) o そうした 状況の 中で, 「社会学と は 何 か?」 を 語る こと は 非常に 困難な 営みで 
あるが, 少なく とも 社会学が 1 つの 学問 分野 を 構成す る ものである 以上 は, そこに 何 かしらの 共通 項ない し 
は 最大公約数が 存在す る はずで ある。 その 共通 項に あたる のが, この 「社会学の 根本 問題」 である (高 田 
1922: 36-7)。 すなわち 「個人と 社会」 の 相互 規定 関係 を 解明す る ことが 社会学と いう 学問の 共通 目標で あり, 
それ故に, 社会学と いう 学問で 用いられ ている 種々 の 概念 群 (Cf. 桑原 2001:81-5; 2003a: 12) もまた, 必 
然的 にこの 「根本 問題」 を 解明で きる ような 形で, そうした 解明に 適合 的な 形で 作られて いる 場合が 多い。 

—3 — 

経 済 学 論集 第 76 号 

一形 態」 であると 表現して いる。 すなわち, 他者との 間で 行う 社会的 相互作用 を 自分自身と 行う の 
力ま, 換言す るなら ば, 他者との 社会的 相互作用 を 個人の 内に 内在 化 (internalize) させた もの 力 ^', ブ 
ルーマ 一の 言う 「自分自身との 相互作用」 すなわち 「自己 相互作用」 に 他なら ない。 また この 概念 
は, ブルー マ一 において は, 「表示」 (indication) と 「解釈」 (interpretation) からなる 「解釈の 過程」 
(process of interpretation) と 同義で 用いられて いるもの である。 かねてより, 彼の 自己 相互作用に 
関する 立論に 関して は, それが 「社会化」 (socialization) に関する 議論 を 看過した 「主観主義」 的 
な ものである, との 批判が 提示され てきた が, 本章 は, そうした 批判に 対する 反論と しての 位置 づ 
け も 有して いる。 

自己 相互作用 概念 を 軸と する, ブルーマーの シンボリック 相互作用 論に おいて, 「社会化」 
(socialization) と は, 他者との 社会的 相互作用 を 方向 付ける 「定義の 諸 図式」 (schemes of definition) 
と, 自己との 相互作用 (自己 相互作用) を 方向 付ける 「一般化 された 諸々 の 役割」 (generalized 
roles) という 二つの 解釈 枠組み を, 個人が, 自己 を 取り囲む 「他者た ちの 集団」 (groups of others) 
から 獲得し, そうした 枠組みに, 自らが 営む 相互作用 における 解釈 • 定義 を 方向 付けられる こと, 
と 捉えられ ている。 ブルー マ一 において, 解釈 • 定義と は, 一般化 された 諸々 の 役割の 獲得— 定義 
の 諸 図式の 獲得— 一般化 された 諸々 の 役割に 方向 付けられた 自己 相互作用 における 定義の 諸 図式の 
吟味— その 吟味の 結果, 修正 '確定された, 新たな 定義の 諸 図式に 基づく 外界の 知覚 (perception), 
という 一連の プロセスと 捉えられ ている。 この プロセス こそ, 「意味 付与」 (conferring of meaning) 
と 呼ばれ る 営みに 他なら ない。 

なお, 上記に おいて 夕' 1^ 界と は, ブルーマー において は, 「現実の 世界」 (world of reality) を 意味 
し, ブル一 マ一 において 「人間」 と は, そうした 現実の 世界 (社会的. 物的 環境) に 取り囲まれた 
存在と 捉えられ ている。 人間 は, 上述の 意味 付与の 営み を 通じて, この 世界から, 自らに とっての 
「対象」 (object) を 形成す る 存在と 捉えられ ている。 なお, ブル一 マ一 において 「意味 付与」 と は, 
ある 一定の 「パースペクティブ」 (perspective) に 基づく 「知覚」 と 同義の ことと 捉えられ ている, 
という 点 を ふまえるならば, 「対象」 と は, その パースペクティブ によって 人間が 捉えた, 現実の 
世界の ある 一定の 部分で あると も 表現で きる。 ブル一 マ一 は, この 「対象」 を, 「物的 対象」 
(physical object) , 「社会的 対象」 (social object) , 「抽象的 対象」 (abstract object) の 三つに 大別して 

人間に とっての 「世界」 (world) と は, こうした 「対象」 からのみ 構成され る ものと 捉えられ, 
人間 はこの 意味での 「世界」 の 中に 住んで いる。 その 意味で, ブル一 マ一 において 「個人と 世界と 
の 関係」 と は, 人間に よる 世界 (現実の 世界) に対する 自己 相互作用 を 通じた 解釈 ,定義 (意味 付 
与/知覚) によって 定められる ものと 捉えられ ている ことになる。 

とはいえ, ブルー マ一 において は, 個人と 世界との 関係が, 人間に よる 世界に 対する 一方的な 解 

釈' 定義に よって 決 もされる ものと 捉えられ ている わけで はない。 なぜなら, 解釈 '定義され る そ 
の 世界, すなわち 現実の 世界に は, いつでも そうした 解釈 • 定義に 対して 「語り 返し」 (talking 

back) してく る 可能性 力 存在す る ものと 捉えられて いるから である。 また 個人 は, その 「語り 返し」 

—4 — 

シン ボリ ッ ク 相互作用 論 序説 

を 契機と して, 自らの 解釈 • 定義の 妥当性の 如何 を 知る ことが 出来, その 結果と して, 自らの 解釈- 
定義 を 修正す る ことになる。 したがって, ブルー マ一 において, 個人と 世界との 関係と は, 個人に 
よる 世界に 対する 解釈 • 定義に よって 一義的に 決定され る ものと 捉えられて はならない。 ブル一 マー 
において, 個人と 世界との 関係と は, 個人に よる 世界に 対する 解釈 • 定義と, 世界から その 解釈- 
定義に 対して 寄せられる 「語り 返し」 との 絶え間ない 相互作用 を 通じて, 絶え + 形成 • 再 形成され 
る ものと す 足 えら れな ければ な ら ない。 

こうした 「個人と 世界との 関係」 把握 を ふまえた 上で, では, その 個人の 「行為」 (action) と は, 
如何なる ものと 捉えられる のか。 ブル一 マ一 において 行為 (「個人的 行為」 (individual act)) と は, 
まず 何よりも, 現実の 世界に 対する 「適応」 (fit, adjust) 活動と 捉えられ ており, それ は, 現実の 
世界からの 語り 返し を 契機と した, 絶えざる 形成 • 再 形成 を 余儀なく される ものと 捉えられる。 ブ 
ルーマ一 はこの 「行為」 を, 「衝動」 (impulse) ― 「知覚」 (perception) ― 「操作」 Manipulation) 
― 「完結」 (consumation) という 一連の プロセス からなる ものと 捉えて いる 力;', 上記の 「個人と 世 
界 との 関係」 に関する 知見 を ふまえるならば, この プロセス は, 「衝動」 「完結」 で 
完結す る ものと してで はなく, 「衝動」 1) — • • • • — 「完結」 1) ― 「衝動」 2) — • • • - 
—「衝動」 n) と 絶えず 継続して 行く ものと 捉えられなければ ならない ことになる。 

2. 相互作用 としての 社会 

続く 第 2 章に おいて は, 上記の 問い 2) の 解明が 企図され ている。 ブルーマーの シンボリック 相 
互 作用 論に おいて は, 上記に 論じた 「行為」 が, 個々 人間に おいて, 相互に 取り交わされ ている 場 
合, それ は 「社会的 相互作用」 (social interaction) と 呼ばれ, それ を ブル一 マー は, 「自己 相互作用」 
の 介在し ない 「非 シンボリック 相互作用」 (non- symbolic interaction) と, 「自己 相互作用」 の 介在 
する 「シンボリックな 相互作用」 (symbolic interaction) の 二つに 大別して いる。 その上で ブル一 マ一 
は, 前者の 相互作用 を, ミードの 言う 「身振り 会話」 (conversation of gestures) と, そして 後者の 
相互作用 を, ミードの 言う 「有意 味 シンボルの 使用」 (use of significant symbols) と 同義な ものと し 
ている。 とはいえ, 本章での 議論の 結果, 後者の 相互作用に は, より 正確に は, 未だ 「有意 味 シン 
ボル」 が 成立して いない ものの, 相互作用に 参与して いる 個々 人が, 各々 自己 相互作用の 営み を 通 
じて, 有意 味 シンボル を 成立 させようと している シンボリックな 相互作用と, 成立した 有意 味 シン 
ボル を 媒介と して 行われる 「有意 味 シンボルの 使用」 と 同義の ものと しての シンボリックな 相互 作 
用, という 二つの シン ボリ ックな 相互作用が 含まれて いる ことが 明らかにされた。 ブルー マ一 にお 
いて, 「社会」 (「人間の 社会」 (human society) ) と は, シンボリックな 相互作用の 「本来 的 形態」 
(real form) からなる ものと 捉えられ, その 相互作用 を, ブル一 マ一 は, 「ジョイント ■ アクション」 
(joint action) ないし は 「トランス アクション」 (transaction) と 呼んで いる。 実は, この 本来 的 形態 
としての シンボリックな 相互作用 こそ, 上記の 「有意 味 シンボルの 使用」 と 同義の ものと しての シ 
ンボ リックな 相互作用に 他なら ない。 いわば, ブル一 マ一 において, 社会と は, そうした ジョイ ン 

—5 — 

経 済 学 論集 第 76 号 

ト - アクション 力 s、, 通 時 的 共 時 的に 相互に 折り重なつ たもの 6 と 捉えられ ている。 その 意味で, ブ 
ルーマ 一にお いて は, この ジョイント. アクションと は, 社会の 「基本的 単位」 として 位置づけら 
れ ていた。 

ブルーマー において は, ジョイント ■ アクションの 形成 は, シンボリックな 相互作用に おいてな 
される ものと 捉えられ ている。 すなわち, シンボリックな 相互作用 を 通じて, その 本来 的 形態で あ 
る も う 一つの シン ボリ ッ クな 相互作用 (ジョイント • ァ クシ ョ ン) が 形成され る ものと 捉えられて 
いる。 ここで シンボリックな 相互作用と は, ブル一 マ一 において は, ある 「身振り」 (gesture) の 
提示と, その 身振りの 「意味」 (meaning) に対する 一つの 反応と 定式化され ている。 さらに 身振り 
は, それ を 提示す る 者と, それが 向けられる 者との 双方に 対して 意味 を 持ち, 両者に 対して 身振り 
が 同じ 意味 を 持つ とき, 両者 は 相互に 理解し 合って いる, と ブル一 マ一 において は 捉えられ ている。 
この 「相互に 理解し 合って いる」 状態と は, ブル一 マーに おいて は, 個々 人の 間に, 「有意 味 シン 
ボル」 (significant symbol) ないし は 「共通の 定義」 vcommon definition) 力 ; 成:^ して レ、 る; | 犬, 、口 末 
している。 また 有意 味 シンボルが 成立して いる 状態と は, より 正確に は, 個々 人が, 各々 の 自己 相 
互 作用 を 通じて, そこで 提示され ている 身振りに 対して, 同一の 意味 を 付与して いる 状態 を 指して 
いた。 ジョイント • アクション は, この 有意 味 シンボル ないし は 共通の 定義が 成立す る ことによ つ 
て 可能になる ものと, ブル一 マ一 において は 捉えられ ている。 そうした 共通の 定義 は, 個々 人が, 
自己 相互作用の 一形 態と しての 「考慮の 考慮」 (taking into account of taking into account) を 駆使 
しつつ, 互いに 「相手の 観点」 と 「相手の パースペクティブから 見た 自分自身の 観点」 の 双方 を 
切に 把握 (想定/解釈 • 定義) したと きに のみ 成立す る ものと 捉えられ ている 7 。 また, 個々 人に 
よる, そうした 二つの 見地の 適 七 i] な 把握 は, その 個人が, 自己 を 取り囲む 「他者た ちの 集団」 から, 
前もって, 種々 の 解釈の 道具 (「定義の 諸 図式 丄 「一般化 された 諸々 の 役割」) を 獲得し, そうした 
道具に よって, その 解釈 • 定義 を 方向 付けられる ことにより 可能になる ものと, ブル一 マ一 におい 

て は 捉えられ ていた。 また, 個々 人に より 作り出され たこの 共通の 定義に よって, ジョイント -ァ 
クシ ョ ンは, その 規則 性 • 安定性 • 再起 性 を 保障され る, と ブル一 マ一 において は 捉えられ ていた。 

' この 点に ついて, 先に 筆者の 1 人 (桑原) は 共 i 5 J で, その 発展 可能性 を 握る パースペクティブに, A. ス トラ 
ウスの 「交渉 的 秩序 論」 と T. シブタ 二の 「社会的 世界 論」 が 挙げられる こと を 指摘した。 桑原 .木 原 (2010: 
247) を 参照の こと。 

7 こう した 社会的 相互作用 把握 を 共有す る 論 稿に 次の ものが ある。 Glaser and Strauss (1964; 1965=1988); Scheff 
(1967a; 1970)0 なお, ブルーマーの 相互作用 把握と スト ラウス 等 及び シヱフ の 相互作用 把握との 関連に つい 
て 論究した 論 稿に, 桑原 (2003c) [] が ある 力、 この 論 稿 は 上記の 3 者の 
相互作用 把握が 似通って いる こと (その 相 同性) を ことさらに 強調しつつ も, 3 者の 「把握」 の 相違点の 析 
出と それらの 統合 (関連 づけ) が 十分に なされて いると は 言い難い。 そもそも, 人間の 異質 性 をむ ねとし, 
そう した 人々 の 間の 意味の 共有の 困難 性 (確率 上の 限りない 低 さ) を 強調す る ブル一 マ一 の シン ボリ ック相 
互 作用 論 や スト ラウス 等の 多元的 相互作用 論と, シヱフ の 目指す 「合意」 理論との 間に は, 容易に は 埋めが 
たい 大きな 溝が ある。 

一 6 一 

シン ボリ ッ ク 相互作用 論 序説 

3. 個人と 他者との 関係 

第 3 章に おいて は, 上記の 問い 3) の 解明が 企図され ている。 ブルーマー は, 一方で, 社会と い 
う もの を, 個々 人に より 作り出された 「共通の 定義」 によって, その 規則 性 • 安定性 • 再起 性 を 保 
障され る ものと 捉えつつ も, 他方で, 社会 を, 多くの 不確定の 可能性に も 開かれて いるものと 捉え 
ている。 すなわち, 不確定 性 や 偶然 性 ゃ予其 月せ ぬ 変容が, 社会と いう もの (ジョイント .ァ クシ ョ 
ン) が 持って いる, その 重要な 特徴と して 認識され なければ ならない こと を, ブルーマー は 強調し 
ている。 では, 何故に そう 考えなければ ならない のか。 こうした こと を, 「自己 相互作用」 概念と 
の 確固たる 結びつきの もとに 明らかに するとい うこと は, すなわち, 自己 相互作用 概念との 確固た 
る 結びつ きのもとに, 社会 を 構成す る ジョイント • ァ クシ ョ ンの 規則 性 • 安定性 • 再起 性が 維持 さ 
れ 続ける という こと 力す, 事実上, 不可能な ことで あると 言う こと を 明らかにする こと を 意味す る。 
換言す るなら ば, 共通の 定義が 維持され 続ける 可能性が 存在し 得ない こと を, 自己 相互作用 概念と 
の 関わりの も とに 明らかにする こと を 意味す る。 

ブル一 マ一 において, 「共通の 定義」 が 維持され ている 状態と は, すなわち, 個々 人の 間に 「有 
意味 シンボル」 が 維持され ている 状態 を 意味して いた。 また, その 状態 を ブルーマー は, 「ある 身 
振り を 提示して いる 人間 力 s', その 身振りが 向けられ ている 他者と 同じように 〔同じ 見方で〕 自らの 
身振り を 見て いる」 状態と 捉えて いる。 こうした 状態が 維持され 続ける ために は, 身振り を 提示し 
ている 人間 は, その 身振りが 向けられ ている 他者 を, ある 一定の 見方で その 身振り を 見て いる 他者 
として, 自己 相互作用 を 通じて, 解釈 • 定義し, かっそうした 解釈 • 定義が 妥当な もので あり 続け 
なければ ならない。 ところが, そうした こと を 不可能に する 特性 力、 この 他者に は ある。 

先に 本論 第 1 章で 明らかにされ たように, ブルー マ一 において は, ある 個人 を 取り巻く 「世界」 
(world) と は, その 個人に とっての 「対象」 (object) からのみ なる ものと 捉えられ ている。 それ 故, 
個人と つての 「他者」 という 存在 もまた, その 個人に とっての 「対象」 の 一種と して 位置づけられ 
ている ことになる。 ところで 「対象」 と は, 先に も 論じた ように, 個人が ある 一定の パース ぺク ティ 
ブ にしたがって 知覚した (すなわち, 自己 相互作用 を 通じて ある 一定の 意味 を 付与した), 「現実の 
世界」 の ある 一定の 部分 を 指す から, 「対象」 と は, 一方で 個人に よって 知覚され たもので あると 
同時に, 他方で 「現実の 世界」 の ある 一定の 部分で も あり 続ける, という ことになる。 同様に, 
「他者」 という 存在 もまた, 一方で その 個人に よって 知覚され たもので あると 同時に, 他方で, 「現 
実の 世界」 の ある 一定の 部分で も あり 続ける, という ことになる。 では, その 「現実の 世界」 と は 
如何なる 特性 を 有する ものと 捉えられ ていたの か。 先に 第 1 章で 明らかにされ たように, 「現実の 
世界」 と は, 個人に よる その 世界に 対する 解釈 • 定義に 対して, いつでも 「語り 返し」 してく る 可 
能 性 を 持った 存在と 捉えられ ていた。 また 個人 は, その 「語り 返し」 を 契機と して, 自らの 解釈- 
定義の 妥当性の 如何 を 知る ことが 出来, その 結果と して, 自らの 解釈 • 定義 を 修正す る ことになる。 
さらに, そうした 「語り 返し」 が 生じる 可能性が いつでも あるが 故に, 個人が, ある 一定の 解釈' 
定義 を, 妥当な ものと して 用い 続ける こと は, 事実上, 不可能な ことと 捉えられなければ ならない 

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経 済 学 論集 第 76 号 

ことになる。 ある 個人に とっての 「他者」 という 存在 もまた, その 現実の 世界の 領域に 位置す る も 
ので あり, それ 故, 個人が, その他 者に 対して 行った ある 一定の 解釈. 定義 を, 妥当な ものと して 
用い 続ける こと もまた, 不可能な ことと 捉えられなければ ならない。 他者が 持つ こうした 特性 を 指 
して, 本論 は, 他者の 「不可視」 性 S と 名付けた。 

以上 ここまでの 議論 を 踏まえるならば, 次のように 結論 づける ことができる。 すなわち, ブルー 
マーの シン ボリ ック 相互作用 論に おいて は, 「共通の 定義」 なる ものが 永久に 維持され 続ける とい 
うこと は, 事実上, 不可能な ことと 捉えなければ ならない。 何故なら, 共通の 定義が 維持され 続け 

るた めに は, 身振り を 呈示して いる 人間 は, その 身振りが 向けられ ている 他者 を, ある 一定の 古 

で その 身振り を 見て いる 他者と して, 「自己 相互作用」 を 通じて, 解釈 ,定義し, かっそうした 解 
釈 • 定義が 妥当な もので あり 続けなければ ならない が, 解釈 • 定義され る その他 者に は, いつでも 
そうした 解釈 • 定義 に対して 「語り 返し」 する 可能性が ある, という 特性が あり (他者の 「不可視」 
性), それ 故, そう した 解釈 ■ 定義が 修正され なければ ならない 可能性が いつでも 存在して いるか 
ら である。 

4. 研究者と 研究 対象 者との 関係 

終 章に おいて は, 第 1 章, 第 2 章, 第 3 章で 明らかにされた, ブルーマーの 「動的 社会」 観 を, 
軽 験 的に 検証す る 検証 手段と しての, 「行為者の 観点」 (standpoint of the actor) からの アプローチ 
について, 議論が 割かれて いる。 

本論 第 1 章, 第 2 章, 第 3 章で 明らかにされ たの は, ブル 一マーの シンボリック 相互作用 論の パ一 
スぺク ティブから 捉えた 「動的 社会」 観の 内実で あるが, 極言す るなら ば, 「シンボリックな 相互 
作用と しての 社会」 (society as symbolic interaction) とレ、 う ブル一 マーの よ く 知られた 表現から も 
分かる ように, ブル一 マーに とって 「社会」 と は, まず 何よりも, 人間 間の 社会的 相互作用 (その 
本来 的 形態が トランス ァ クシ ヨンで あり ジョイント • ァ クシ ョ ン であった) が 折り重なつ たものと 
して 捉えられ ていた。 したがって, ブル 一マーの シンボリック 相互作用 論に おいて は, 社会的 相互 
作用と は, 社会の 基本的 単位に 他なら ず, それ故に, その 基本的 単位で ある 社会的 相互作用 (トラ 
ンス アクション/ジョイント ■ アクション) を 研究 すれば, 「人間の 社会」 (human society) という 
ものが 持つ, それ 特有の 性質が 明らかになる。 これ 力 s', ブル一 マーが シンボリック 相互作用 論と い 
う 立場から 立てた 社会に 対する 仮説であった。 本論 第 1 章, 第 2 章, 第 3 章の 諸 議論に より 明らか 

S こうした 特性 を 指して, 先に 筆者の一 人 (桑原) は 「ブラック 'ボックス」 性 ('black box'ness) と 呼んだ 
(桑原 ■ 山 口 2007: 6-7)0 言うまでもなく, N. ルーマン (Luhmann 1984=1993; 1995) から 借用した 用語で あ 
り, これ は, ブル一 マ一 の シンボリック 相互作用 論に おいての みならず, たとえば, A. スト ラウスの 相互 作 
用 論に おいても 踏まえられなければ ならない (山 口 2008: 25-6), とされて いるもの でも ある。 さらに 言え 
ば, 前 出の Glaser and Strauss (1964:670-1) においても 踏まえられ ており, また Scheff (1967a) の 応用 型と 
して シヱフ 自身が 位置づけ ている Scheff (1967b) において は 顕著に 前提と されて いるもの である。 

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シン ボリ ッ ク 相互作用 論 序説 

にされ た 社会的 相互作用 把握 を 提示す るなら ば, それ は 次のように 捉えられる。 すなわち, 社会的 
相互作用と は, そこにお いて, 互いに 相手が 不可視 的な 存在と なって いる 個々 人力、 各々 の 自己 相 
互 作用の 一形 態としての 「考慮の 考慮」 を 駆使しつつ, 互いに 「相手の 観点」 と 「相手の パース ぺ 
ク ティブから 見た 自分自身の 観点」 の 双方 を 探り 合う (定義し 合う) 過程で ある, と 捉えられる。 
すなわち, そこにお いて, 個々 人 は, 「考慮の 考慮」 を 駆使しつつ, 相手が どのような 観点 を 持つ 
た 存在で あるの か (「相手の 観点」), また 相手から 見て, 自分自身 は どのような 観点 を 持った 存在 

と 捉えられ ている のか (「相手の パースペクティブから 見た 自分自身の 観点」) という, この 二つの 

事柄 を 絶えず 想定 (解釈 • 定義) し 合わなければ ならない, そうした 過程と して 社会的 相互作用 を 
把握す る ことが 出来る。 また 互いに 相手が 不可視 的な 存在と なって いる 力 故に, 必然的に 個々 人 は, 
再定義 を 余儀なく される ので あり, それ故に, その 相互作用 は 絶えず 進展 を 余儀なく される。 これ 
が, 本論から 得られた 社会的 相互作用 把握であった。 ところで, ブル一 マーの シンボリック 相互 作 

用 論より 得た この 社会的 相互作用 把握 は, 彼の 方法論に おいて は 「感受 概念」 (sensitizing concept) 
の 範疇に 入る もので あり, それ 故, 当然 この 相互作用 把握 は, そこより 演鐸 的に 理論 を 構成して ゆ 
く その 前提と して 自明 視 ■ 絶対 視 されるべき もので はな く , その 妥当性 を 個々 S'U 々の 経験的 世界の 
個々 別々 の 事例に 照らして, そう した 個々 別々 の 事例が 持つ, 個々 別々 の 独自性 を 引き出す という 
形で, 検証され なければ ならない ものと なる。 

ブル一 マー は, 社会科学の とるべき 理想的 検証 方法と して, 「自然 的 探求」 (naturalistic inquiry) 
法 を 提唱して いる 力 s', それ は, ブル一 マ一 によれば, 「研究の 指針と なる 概念と 経験的 観察との 絶 
XL 『曰, ない 相] 作用」 (conlinuing interacLion between guiaing ideas and empirical observation ノ 化, 石开究 
者が 実践す る こと を 要請す る ものであった。 換言す るなら ば, 自然 的 探求と は, 経験的な 観察 を 通 
じて, 絶えず, 研究者 力 巧开究 対象に ついて 抱いて いる イメージ ないし は 認識 を, 検証 • 改訂して ゆ 
く 営み を 意味して いる。 では, 研究者 は 如何にして, そうした 検証 や 改訂 を 行う ことが 出来る とブ 
ルーマ一 は 捉えて いるので あろう か。 換言す るなら ば, 研究者 は 如何にして, 自らの イメージない 
し は 認識が 妥当な もので あるか 否か を 知る ことが 出来る ものと 捉えられて いるので あろう か。 ブルー 
マ一 は それ を, 研究 対象で ある 「軽 験 的 世界」 (empirical world) から 研究者の イメージ や 認識に 対 
して 発せられる 「抵抗」 (resisting) ないし は 「語り 返し」 (talking back) (「否定的 実例」 (negative 
case) の 発生) を 手がかり としてな され 得る, としてい る。 

では, 研究者が, 上記の 社会的 相互作用 把握 (シンボリック 相互作用 論の 「ルート • イメージ」 
(root images)) を 分析 枠組みと して 採用し, その上で, 上記の 自然 的 探求 を 行う とすれば, その 研 
究者は 如何なる 方法論 的な 立場に 立つ ことになる のか。 ブル一 マーが 提示す る その 立場が, 上記の 
「行為者の 観点」 (standpoint of the actor) からの アプローチに 他なら ない。 すなわち, ブルーマー 
によれば, シンボリック 相互作用 論の ルート • イメージ を 分析 枠組みと して 採用し, その上で, 自 
然的 探求 を 行う とすれば, 研究者 は, 必然的に, 「行為者の 観点」 からの アプローチ を 行わな けれ 
ばなら ない こと になる という。 本論 終 章に おいて は, この アプローチ を 実際に 実行す るに 際して 伴 
う, 諸問題 • 諸 留意 点に ついて 議論が 展開され ている。 

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経 済 学 論集 第 76 号 

まず, 「活動 単位」 (acting unit) に 集団 を も 含める か 否か, という 論点に ついて。 「行為者の 観点」 
からの アプローチと は, 約言す るなら ば, 研究者が, 社会 を 研究す るに 際して, それ を 構成す る 
「行為者の 立場」 (position of the actor) から 研究 を 行う こと を, 換言す るなら ば, その 行為者の 役 
割 を 取得す る こと を, 研究者に 要請す る ものであった。 ところで, ブル一 マーに おいて は, この 
「行為者」 に は, 人間 個人の みならず, 集団 も その 範疇に おさめられ ている。 そのこと を 明示す る 
ために ブル一 マ一 は, しばしば, 「行為者」 に 言及す るに 際して, 「活動 単位」 (acting unit) という 
用語 を 用いて いる。 ブルー マ一 によれば, この 活動 単位に 含まれて いるの が, 人間 個人で あれ 集団 
であれ, そうした 活動 単位の 行為 は, 等しく, それらが 行う 解釈の 過程の 所産と 捉えられなければ 
ならない。 また それ故に, そこに 含まれて いるの が 人間 個人で あれ, 集団で あれ, 研究者 は その 
「活動 単位の 役割 を 取得」 するとい う 「行為者の 観点」 からの アプローチ を 実行し なければ ならな 
い。 これが, ブルーマーの 主張で ある。 とはいえ, この 「活動 単位」 に 集団 を も 含めた 場合, 研究 
者に よる, その 集団 全体の 役割 取得が 如何にして 可能で あるかに ついて, ブルーマー は 説得 的 ■ 体 
系 的な 説明 を 用意し 得て いなかつ たこと 力 s', 本章の 議論の 結果 明らかにされた。 議論の 結果, 「行 
為 者の 観点」 からの アプローチ を 実行す るに 際して は, その 「行為者」 (「活動 単位」) に は, 人間 
個人の み を 含めるべき とする 結論が 導出され た。 では, そもそも 「行為者の 観点」 を 取得す る, と 
いう こと は 如何なる 事態 を 意味して いるので あろう か。 それ は, ありのままの 行為者の 観点 を i^' 、ィ 
レ乡 トに 取得す る こと を 意味して いるので あろう か。 次に その 点に ついて 議論が 展開され た。 

仮に, 自己と 他者と いう 二人の 人間に よって 社会的 相互作用が 営まれて いると しょう。 本論で 得 
られた 知見 を 踏まえるならば, そうした 相互作用 において, 二人 は 各々 「自己 相互作用」 の 一形 態 
としての 「考慮の 考慮」 を 行いつつ, 互いに 「相手の 観点」 と 「相手の パースペクティブから 見た 
自分自身の 観点」 の 双方 を 探り 合って いる。 シンボリック 相互作用 論の パースペクティブ からする 
ならば, 社会的 相互作用に 参与して いる 自己と 他者と は, 互いに 相手が 不可視 的な 存在と なって い 
る もの, と 捉えられる。 それ 故 研究者が, そうした 社会的 相互作用 を 「行為者の 観点」 から 明らか 
にしよう とする 際に は, 当然ながら, 研究者 は, 社会的 相互作用 において, 自己 は 他者の 内面 を, 

他者 は 自己の 内面 を, 本当のと ころ は 把握し きれてい ない 状態に ある, という; i 論 上の 前提 を 方法 

論 的な 前提と しても 据えた 上で, そう した 前提に 見合った 調査 方法 を 採らなければ ならない ことに 
なる。 すなわち, ある 個人の 内面 はあくまで その 個人から 引き出されなければ ならない ので あり, 
その 個人と 相互作用 を 営んで いる 他者から 引き出されるべき もので はない。 とはいえ, ここで 忘れ 
て はならない こと は, フィールドに 調査に 入る 研究者と いう 存在 もまた, その フィールド における 
一人の 「行為者」 に 他なら ない という 論点で ある。 すなわち, 研究者に よる 調査 研究と いう 行為 も 
また, 「一つの 解釈の 過程」 に 他なら ず, それ故に 研究者 (調査 者) と 行為者 (調査 対象 者) との 
相互作用 もまた, 等しく シン ボリ ックな 相互作用の 範疇に 入る ものと 捉えられなければ ならない こ 
とになる。 であるならば, 研究者に とっても また, その 人の 役割 を 取得し ようと 思って いる 行為者 
(対象 者) は, 不可視 的な 存在と して 存在して いるものと 捉えなければ ならない ことになる。 その 
意味で, 研究者に よる 「行為者の 観点」 の 取得と いう 営み は, その 観点の ありのままの 姿 を ダふレ 

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シン ボリ ッ ク 相互作用 論 序説 

クトに 取得す る こと を 意味して いる わけで はない。 そうで はなく, それ は, 「対象 者の 解釈 過程に 

対する 研究者の 解釈 過程」 (reconstruction of constructions) でし か あり 得ない。 では, その 解釈 過 
程の 結果と して, 研究者が 対象 者に 対して 適用した, その 解釈 ,定義 (「行為者の 観点」 に関する 
研究者の 想定) の 妥当性の 如何 は 如何にして はかれる のであろう か。 別言す るなら ば, 研究者 は そ 
の 「対象 者の 解釈 過程に 対する 研究者の 解釈 過程」 を 如何に 対自 化し 得る のか。 先に 見た ように, 
ブルーマー は, 研究者に よるそう した 解釈 • 定義の 妥当性の 如何 を, 「経験的 世界」 からの 「語り 
返し」 を 手がかり として 検証す る ことが 出来る としてい るが, では, その 「語り 返し」 を どう 処理 
し, どう 自らの 解釈. 定義 を 修正 (—確定) すれば よいの かが, 先の 説明で は 明らかにされ ている 
と は 言い難い。 その 検証の 基準 を 設定した 上で, 本論の 議論より 析出され た 社会的 相互作用 把握 を 
経験的に 検証す る こと 力 s', われわれに とっての 今後の 第一の 課題と なること 力ま, 本論の 考察の 結果, 

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経 済 学 論集 第 76 号 


本論 は, 先に 鹿 児 島 大学 経済学 会 『経済学 論集』 54 号 (2001 年 3 月) において 公刊され た 「東北 
大学 審査 学位論文 (博士) の 要旨一 シンボリック 相互作用 論 序説 (3)_リ 】 。 のき i 版で ある 11。 

引用 ■ 言及 文献 

I : 

濱嶋 朗 ほか (編) 1977 『社会学 小 辞典』 有斐閣。 

桑原 司 1999 「社会 過程の 社会学」 『TOUR』 東北大 学 〔http:〃〕。 
2009 「No.0501, 0601, 0701 合冊 版」 『Discussion Papers In Economics and Sociology』 No. 0902, 

The Economic Society of Kagoshima University 〔http://j 

木 原 緩 香 2010 「ハーバー ト • ブルーマーの シン ボリ ック 相互作用 論の 展開 可能性」 『地域 

政策 科学 研究』 7 鹿 児 島 大学 大学院 人文 社会科学 研究科 (博士 後期 課程) 地域 政策 科学 専攻 〔http: 

9 http://warp.da.ndl.go.Jp/info:ndijp/pid/258347/ mfomation/kouhou/no.l6/kouki.pdf [Cf. 

http://warp.da.ndl.go.Jp/search/archivesearch/] o 
1 - htt;p:// — u.a に jp/staff/kuwabam/20100918/phdOl.jpg 〜 


[Cf. http:/7web. 皿 08030703/hUp://ecowww.leh.kagosMma_u.a に jp/staff/kuwabara/niemory.htm] 。 
11 以下 ここで, 本 号に おいて 上記 論文 (二 桑原 2001: 16) の 訂正 版 を 作成 ■ 公刊した 経緯に ついて 説明て おき 


桑原 (2001) は, 桑原 (2003a: 16) L 一— doc 
/infomation/kouhou/no.l6/kuwabara.pdf] においても 言及した とおり, その 内容 は 主として 桑原 (1999=2007a: 
248-57) を 転載した ものから 構成され ている。 その後 筆者の一 人 (桑原) は, 諸般の 事情から, 桑原 (2001) 
を 以下の 論 稿と して さらに 転載して きた。 

1) 桑原 (2005); 

2) 桑原 (2006b); 

3) 桑原 (2006c) [] ; 

4) 桑原 (2009) 〔h1:1:p:〃opa に〕。 

とはいえ, これら一 連の 論 稿 ほかに は, 種々 の 理由から, 夥しい 数の 誤植 や 学術論文 として 不適切な 内容が 
含まれて しまつ た。 該当 箇所 は 以下の 通 りで ある。 

a) 桑原 (1997: 68-70); 

b) 桑原 ( 2 000c: 130-1); 
C) 桑原 (2001: 77-86); 

d) 桑原 (2005=2Q06b=2Q07b=2Q09: 12-35) 
no0902.pdf] [Cf. hUp:〃 u.a に jp/bitstream/10232/4197/l/D 

その後, そう した 不適切な 内容 等 を 削除した うえで 公刊し 直す 必要性に 直面し [Cf. 桑原' 山 口 ( 2 00 7 ); 桑原' 奥 田 
( 2 00 8 : 6 0); 桑原. 木 原 ( 2 010: 248) 」, 本 号に おいて 桑原 (2001) の 「訂正 版」 を 公刊した 次第で ある。 そのため, 本論 
の 本文 は, 桑原 (2001:69-77) と 同一の ものである。 今回の 訂正 版に おいて は, 本文の 内容に は 一切 手 を 加え 
ず, 他方で, 欧文 要旨 ■ 各 章の 見出し ■ 12 個の 脚注 を 付加した [なお これら は. この 注 11 を 除き. 主として 油 ffl が 作成した]。 
最後に, 本論と 桑原 • 山 口 (2007) と は 内容の 異なる 論 稿で ある こと を 付言して おきたい。 後者 は 前者の 改訂 
英語版で あ り [ http://sites.], 本文の 記述 内容 及び 脚注の 記述 内容と も に 異な つた ものと なって いる。 

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シン ボリ ッ ク 相互作用 論 序説 


奥 田 真 悟 2008 「シンボリック 相互作用 論 文献 リスト (上)」 『經済 学 論集』 69 鹿 児 島 大学 経 

済 学会 〔http:〃 4 80 9 〕。 

長 田攻ー 1981 『社会学の 要点 整理』 実務 教育 出版。 

高 田 保 馬 1922 『社会学 概論』 岩波 書店。 

II : 

なお, 上記 以外の 引用 • 言及 文献の 書誌 情報に ついては、 以下の 文献 リスト を 参照され たい。 
桑原 • 奥 田 2008 「シン ボリ ック 相互作用 論 文献 リス ト (上)」 『経済学 論集』 69 鹿 児 島 大学 経済学 


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